「実印が押してあるから本人の契約だ」と言われたとき|二段の推定を覆して契約書の真正成立を争うための実務
借入の身に覚えがない、連帯保証をした記憶がない、契約書を見せられても自分が作成したものではない──。そう主張すると、相手方からほぼ必ずこう返ってきます。「あなたの実印が押してあります。これがあなたの契約であることは明らかです」と。
裁判官も、まずはこの理屈に乗ろうとします。最高裁判例が示す二段の推定という法理が、文書に押された印影と本人の印鑑との一致から、文書全体が真正に成立したものと推定するからです。多くの事案で、この推定が働いた瞬間、争いは事実上終わってしまいます。
しかし、二段の推定は絶対ではありません。実務では、二段の推定が一応働いた事案でも、間接事実を丁寧に積み上げることで推定を覆し、契約書の真正成立を否定する判決を得られる場合があります。この覆し方こそが、文書真正をめぐる訴訟の実務の中核です。
このページは、二段の推定がどのような仕組みで働き、どのような事情があれば覆るのかを、判例の蓄積と実務経験に即して説明します。氏名冒用、印鑑の冒用、書類の偽造を主張する側の方、あるいはそうした主張を受けている金融機関側にとっても、判断の材料になる内容です。
1 二段の推定の基本構造
二段の推定は、最判昭和39年5月12日民集18巻4号597頁が確立した法理です。私文書の真正な成立をめぐる立証で、次の二段階の推定が働くとされます。
第一段階の推定として、文書に押された印影が本人の印鑑によるものであることが認められれば、その押印は本人の意思に基づいてされたものと推定されます。これは、実印は本人が厳重に保管しているのが通常であり、他人が押すことは例外的だという経験則に基づいています。
第二段階の推定として、押印が本人の意思に基づいてされたと認められれば、民事訴訟法228条4項により、文書全体が真正に成立したものと推定されます。これは法律が定める法定推定です。
この二段の推定が働くと、契約書に押された印影が本人の実印と一致するというだけで、契約書全体が本人の意思で作成されたものとされ、本人は契約の当事者として責任を負うことになります。
借入金の返還請求、連帯保証債務の履行請求、不動産担保権の実行など、契約書の真正成立がそのまま判決の結論を決める訴訟類型では、この推定の存在が請求側の最大の武器になります。
2 推定を覆すとはどういうことか──「経験則の例外」を示す
二段の推定は、あくまで経験則に基づく事実上の推定(第一段階)と、法律上の推定(第二段階)の組合せです。これを覆すには、推定の前提となる経験則が当該事案では妥当しないこと、あるいは推定された事実とは反対の事実が認められることを、間接事実の積み上げで示す必要があります。
具体的には、次のいずれかの方向で立証します。
第一に、印影が本人の印鑑によるものでないことを示すこと。これに成功すれば、そもそも第一段階の推定が働きません。
第二に、印影は本人の印鑑によるものだが、押印が本人の意思に基づくものでないことを示すこと。家族や同居者、取引関係者などが本人に無断で押印したという事案がこれに当たります。
第三に、押印が本人の意思に基づくものだとしても、文書の他の部分が後から改ざんされたことを示すこと。本人が押印した時点で書面に記載されていなかった内容が、事後に追記された場合などです。
これらをそれぞれの段階で論証し、推定の連鎖を断ち切ることが、争う側の実務の中心になります。
3 第一段階の推定──「印影が本人の印鑑によるものでない」を示す
(1)印鑑証明書の印影との比較
第一段階の推定を否定するには、契約書の印影が本人の印鑑によるものでないことを示します。最も基本となるのは、本人の印鑑登録に係る印影と契約書の印影との比較です。
実印として印鑑登録された印影は、市区町村に登録されており、印鑑証明書の交付を受けることで確認できます。契約書に押された印影と印鑑証明書の印影を並べて比較し、視覚的に異なる点があれば、契約書の印影が別の印鑑(偽造印または類似印)による可能性が浮上します。
比較対象となるのは次のような要素です。
・印鑑の外周(縁)の形状、太さ、欠けの有無 ・文字の字体、太さ、傾き ・文字と文字の間隔 ・経年使用による摩耗・欠損の状態 ・特定部位の特徴的な傷や欠け
視覚的に判別できる差異がある事案では、印鑑証明書と契約書の印影を並べて示す書証だけで、相当程度の立証ができます。
(2)専門家による印影鑑定
視覚的判別が困難な場合は、専門家による印影鑑定を依頼します。印影鑑定は、印鑑鑑定を業とする者、警察科学捜査研究所の経験者などが行い、印影の各要素を詳細に対照した上で同一性の有無について意見を述べます。
裁判では、当事者からの依頼による私的鑑定と、裁判所が職権で選任する鑑定人による鑑定があります。私的鑑定の場合、相手方からの反対鑑定が出される可能性があるため、争点となる部分を客観的に分析している鑑定書を準備することが重要です。
(3)印影の物理的異常からの推認
印影自体に物理的な異常がある場合、それは印影が通常の押印手続によるものでないことを示す間接事実になります。代表的なものは次のとおりです。
印影同士が完全に一致するという異常
同じ印鑑を使って押印しても、押印のたびに朱肉の付き方、押圧、紙の状態によって印影には微細な差異が生じます。インクが紙の繊維に染み込む形状、輪郭の極めて微細な欠け、文字部の濃淡など、これらは押印という物理的行為に伴うノイズとして必ず生じるものです。
ところが、二つの印影をスキャンして拡大対照したときに、滲みの形状や輪郭の欠けまで完全に一致する場合、これは物理的にあり得ない現象です。一方の印影をスキャンして複製し、別の書面に貼り付けたデジタル複製の可能性を強く推認させます。
押印位置の不自然さ
書面の押印欄から大きくずれた位置に押印されている、本来は本人の押印欄なのに別人の印影が押されている、押印の向きが逆さまになっている、といった事情は、本人が目の前で押印したのではない可能性を示唆します。本人が押印するのであれば、書面を確認しながら適切な位置に押すのが自然です。
朱肉の付着状態の異常
通常の押印では、朱肉は印面全体に均等に付着し、押印面に応じた濃淡が生じます。これに対し、不自然に薄い、特定部分だけ濃い、二度押しの痕跡があるといった異常は、印影の作成過程に通常と異なる事情があったことを示す間接事実になります。
4 第一段階の推定──「印影は本人の印鑑だが、本人の意思に基づくものでない」を示す
印影自体は本人の印鑑によるものであることが認められた場合でも、押印が本人の意思に基づくものでないことを示せれば、第一段階の推定は覆ります。最判昭和39年5月12日も、この推定は反証が許される事実上の推定であることを明らかにしています。
(1)印鑑の保管状況からの推認
本人が実印を厳重に保管していなかった場合、第一段階の推定の前提となる経験則自体が弱まります。家族や同居者が容易にアクセスできる場所に保管されていた、家業の経理担当者が業務上預かっていた、勤務先の関係者に管理されていたなどの事情は、本人以外の者による押印の可能性を高めます。
ただし、保管の杜撰さだけでは推定を覆すには足りません。具体的に誰が、いつ、どのような状況で押印したかについての主張立証と組み合わせる必要があります。
(2)押印者の特定
冒用が疑われる押印について、誰が押印したかを具体的に特定できれば、立証は格段に容易になります。家族間紛争の文脈では、配偶者、親、兄弟姉妹、子のいずれかが押印したことが具体的事情から推認できる場合があります。
押印者を特定する手がかりとしては、契約書の他の記載部分の筆跡、契約書の作成現場に居合わせた可能性のある人物の動静、契約書作成日に本人が物理的に別の場所にいたことを示す資料、押印者と本人との利害関係などがあります。
(3)本人が押印できない事情の立証
契約書の作成日とされる時点で、本人が物理的・身体的に押印できる状態でなかったことを示す事情があれば、第一段階の推定は強く揺らぎます。たとえば、その日に本人が遠隔地に出張していた、入院中で意識がなかった、認知症等で意思能力を喪失していた、海外渡航中だったなどの事情です。
これらは出張記録、医療記録、出入国記録、勤務先のタイムカードなどで客観的に立証できる場合があり、決定打になり得ます。
(4)本人の関与を否定する取引の不自然さ
契約書作成の場面に本人が同席しなかったことを示唆する事情も、間接事実として有用です。
具体的には、契約書の他人欄に押されるべき印鑑が本人欄に押されている(本人が見ていれば気づくはずの誤押印)、契約書の記載内容に本人なら気づくはずの誤りが含まれている(住所、生年月日、氏名の漢字違いなど)、複数名の署名部分の筆跡が同一である(本人が同席していれば自分の署名は自分でするはず)、契約書の作成日と本人の行動記録に矛盾がある、といった事情です。
5 第二段階の推定──「文書全体の真正」を覆す
押印が本人の意思に基づいて行われたことが認められた場合でも、文書全体の真正成立を否定する余地は残ります。
(1)文書の改ざんの主張
本人が押印した時点で、文書に現在記載されている内容のすべてが書かれていたとは限りません。本人が白紙または一部のみ記載された書面に押印し、後から他の部分が書き加えられたという主張です。
このような事案では、押印時点での書面の状態を立証することが必要になります。具体的な手がかりとしては、書面の各部分の筆跡の異同、インクの種類の違い、押印の重なり方、書面のしわや折り目の位置と記載内容との関係などがあります。
(2)白紙委任の濫用
本人が白紙委任の趣旨で押印した文書が、委任の範囲を超えて利用された事案も、文書の真正成立をめぐる争いになります。本人が押印した事実は認めるが、契約内容についての本人の意思は欠けている、という主張です。
この場合、押印時点での本人の認識、押印を求めた相手方の説明内容、本人が想定していた利用範囲などが争点になります。
6 間接事実の積み上げ──「動かぬ事実」を作る
二段の推定を覆す訴訟は、決定的な一つの証拠で勝負がつくことは稀です。多くの場合、複数の間接事実を丁寧に積み上げ、総合してみると本人の意思に基づく作成とは考えにくいという心証を裁判官に持ってもらう過程です。
実務では、次のような間接事実を組み合わせて立証します。
物理的・客観的な矛盾として、契約書作成日と本人の所在の矛盾、書面の物理的状態の異常、印影の物理的異常などがあります。これらは反論が困難な「動かぬ事実」として機能します。
金融機関等の業務処理の異常として、通常の業務手順から逸脱した処理、本人確認手続の不履践、複数の取引にわたる不自然な記録などがあります。
契約後の事情として、契約締結後、本人が契約の存在を認識していなかったことを示す事情、契約内容を確認した形跡がないこと、利息や元本の支払が本人と無関係に行われていたことなどがあります。
当事者間の関係として、本人と冒用が疑われる者との関係、利害状況、紛争の経緯などです。
これら個別の事情は、それぞれを単体で見れば「決定打」とは言えないものが多いものです。しかし、複数の事情が同じ方向を指し示すとき、裁判官は経験則に従って、本人の意思に基づく作成ではなかったとの心証に至り得ます。
7 請求する側からの反論
請求する側、たとえば金融機関や契約相手方は、これらの主張に対し、次のような反論を組み立てるのが通例です。
本人による長期間の異議申立てがないこととして、契約締結から相当期間経過しているのに本人が異議を述べていなかったこと、利息や元本の支払が本人の口座から行われていたことなどを指摘します。これは「黙示の追認」あるいは「本人の認識下にあった」との主張に発展します。
業務処理の正当性として、契約手続が通常の業務手順に従って進められたこと、本人確認が適切に行われたこと、関係者の供述に矛盾がないことなどを示します。
冒用者の特定の困難として、本人が主張する冒用者が誰なのか、その者がどのようにして本人の印鑑を入手したのか、なぜそのようなことができたのかについて、本人側の主張が具体性を欠くことを指摘します。
これらの反論を予想した上で、争う側はあらかじめ反論材料を準備しておく必要があります。
8 実務上の留意点──訴訟前の準備が結果を決める
二段の推定を覆す訴訟では、訴訟前の準備の徹底が結果を大きく左右します。
第一に、争う対象となる契約書・押印書類の原本を確保すること。コピーでは印影の物理的状態を分析できず、立証の幅が狭まります。原本の任意提出を求める、訴訟内で文書提出命令を申し立てるなどの方法で、原本にアクセスする必要があります。
第二に、本人の他の押印書類を収集すること。比較対象となる本人の真正な押印書類を多数収集することで、契約書の印影との対照がより精密に行えます。
第三に、契約書作成日とされる時点での本人の行動記録を収集すること。出張記録、医療記録、出入国記録、家族との通信記録、預金通帳の記帳、勤務先の出退勤記録など、その日の本人の所在を示す資料を網羅的に集めます。
第四に、専門家の意見書を早期に取得すること。印影鑑定、筆跡鑑定、書面の物理的分析などは、専門家の関与により立証力が大きく高まります。費用と時間を要しますが、決定打となり得る資料です。
第五に、争点を絞り込んでおくこと。あらゆる論点を主張するよりも、客観証拠で立証できる「動かぬ事実」を中核に据え、そこに関連する事情を積み上げる方針が、裁判所の心証に届きやすい構えです。
9 当事務所の取扱事例──二段の推定を覆して勝訴に至った経過
当事務所が原告側で受任した金融機関相手の事案に、過去の貸付契約書および連帯保証契約書の真正成立を争った事案があります。
この事案では、契約書には依頼者の実印と一致する印影が押されており、金融機関側は二段の推定により契約書の真正成立は明らかであると主張していました。
当事務所は、依頼者側で次の方針を取りました。
第一に、契約書の原本を文書提出命令により入手し、印影をスキャンして拡大分析しました。すると、複数の書面に押された印影の朱肉の滲み形状が、押印に伴うノイズとは整合しない形で完全一致している箇所が発見されました。これは、一方の印影をスキャンして複製し、別の書面に貼り付けたデジタル複製の可能性を強く示唆する物理的事実であり、第一段階の推定の前提となる「通常の押印行為」が当該書面では行われていなかったことを推認させる事情です。
第二に、契約書の押印位置に異常があることを指摘しました。本来は連帯保証人欄に押されるべき印鑑が、別人の押印欄に押されているなど、本人が目の前で押印に立ち会っていたのであれば気づくはずの誤りが複数見つかりました。これは押印の場面に本人が同席しておらず、本人の意思に基づく押印ではないことを推認させる事情です。
第三に、契約書記載の作成日における依頼者の所在を、過去の取引記録、勤務先の記録、家族の証言などから精査しました。複数の契約書について、作成日に依頼者が現場に居合わせることが物理的に困難であることが浮かび上がり、これも本人の意思に基づく押印ではないことを推認させる事情として位置付けました。
これらの間接事実を、印影の真正と本人の意思に基づく押印という二段の推定の各段階に対応させて整理し、総合的に積み上げた結果、裁判所は契約書の真正成立を否定する方向の判断を下しました。
この事例は、二段の推定が一応働いた事案であっても、印影そのものの物理的状態、押印の位置・場面、本人の所在といった、推定の前提となる経験則に直接関わる間接事実を丁寧に拾い上げて立証することで、推定を覆すことが可能であることを示しています。
10 当事務所がお手伝いできること
当事務所は、文書真正をめぐる訴訟、特に二段の推定を覆す方向で争う事案について、原告側・被告側の双方で対応経験を有しています。印影の物理的分析、筆跡鑑定の組立て、間接事実の収集と論述、専門家意見書の取得など、文書真正をめぐる立証実務に必要な作業を進めます。
身に覚えのない契約を金融機関や取引先から主張されている方、家族や関係者による印鑑冒用が疑われる事案を抱えている方、契約書の真正成立をめぐる訴訟で立証方針に悩んでいる方は、次の資料をご持参のうえ、ご相談ください。
・問題となっている契約書・押印書類の写し(原本があれば原本) ・本人の印鑑登録証明書および真正な押印書類のサンプル ・契約締結日とされる時点での本人の行動記録 ・契約締結後の取引履歴、入金・出金記録 ・冒用が疑われる人物との関係を示す資料 ・既に取得している鑑定書、専門家意見書
「実印が押してあるから」と言われて諦める前に、争える余地があるかどうかを一度検討することが、その後の数百万円から数千万円規模の負担を回避する分かれ目になります。
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