「賃料〇か月分」は立退料の相場ではない|事業用テナントが建物明渡しを求められたときに知っておくべき金額算定の実務
建物の賃貸人(貸主)から、「契約の更新をしない」「建物の老朽化により取り壊すので退去してほしい」「賃料を大幅に値上げするか、さもなくば出て行ってほしい」と告げられた——。そう告げられたときに、多くの借主が最初に調べるのが「立退料の相場」です。ネットで検索すると、「賃料の6か月分」「賃料の1年分」といった数字が並びます。
しかし、この「賃料〇か月分」という計算式は、裁判所が採用しているものではありません。ごく大雑把な値頃感を示す目安として流通しているだけで、実際の裁判実務における立退料の算定は、より複雑で、しばしばこうした相場論とはかけ離れた金額が認定されます。
「賃料6か月分で決着しそうだから、そろそろ出るか」と判断して退去してしまうと、本来受け取れたはずの数百万円、数千万円を失う可能性があります。特に、長年営業してきた事業用物件であれば、営業補償、設備移転費、借家権価格など、立退料の構成要素は多岐にわたります。
このページは、建物明渡しを求められた事業用物件のテナントが、立退料についてどう考え、どう交渉し、どう争うべきかを、実務の視点から説明します。
1 「賃料〇か月分」はどこから来た数字か
まず確認すべきは、「賃料〇か月分」という数字に法的根拠がないということです。
借地借家法28条は、建物賃貸借の更新拒絶・解約申入れには正当事由が必要であると定めています。そして、立退料は、この正当事由の補完要素として位置付けられています(借地借家法28条は、正当事由の判断要素として、建物の使用を必要とする事情、従前の経過、建物の利用状況、建物の現況、建物の賃貸人が建物の明渡しの条件として又は建物の明渡しと引換えに財産上の給付をする旨の申出をした場合におけるその申出、を列挙しています)。
したがって、立退料の金額は、正当事由がどの程度充足されているかという評価と表裏一体で決まります。貸主側の明渡しを求める必要性が強ければ立退料は低くて済み、借主側の使用継続の必要性が強ければ立退料は高くなる——という関係にあります。
「賃料〇か月分」という計算は、この複雑な判断を無視した大雑把な相場感でしかありません。不動産業者、立退交渉会社、一部のネット記事は、交渉の入り口として「とりあえずの数字」を提示するためにこの表現を使います。しかし、裁判所が採用している算定ロジックとは全く無関係です。
2 裁判所が立退料を算定する実際のロジック
裁判所は、立退料について、おおむね次のような要素を個別・具体的に評価して金額を算定しています。
(1)借家権価格
借家権は、一定の経済的価値を持つ権利として認知されています。借家権の価格は、土地・建物の更地価格または建物価格に、借家権割合を乗じて算出される場合が多くあります。
借家権割合は、地域や物件の性質によって異なりますが、国税庁の財産評価基本通達では30パーセントとされており、裁判実務でもこの近似値が参照されることがあります。都心部の商業地では、物件の所在地・規模に応じて、借家権価格だけで数千万円から数億円になる場合があります。
借家権価格の算定には、不動産鑑定士の鑑定が用いられる場合もあり、鑑定評価基準に基づく賃料差額還元法、比準価格法、控除法などの手法が用いられます。
(2)営業補償
事業用物件のテナントにとって、立退きに伴う最大の損失は営業上の損失です。営業補償は、次の項目から構成されます。
・休業補償:立退きによる営業停止期間の逸失利益 ・営業権価格:のれん、顧客基盤、営業基盤そのものの価値 ・得意先喪失補償:移転により失われる顧客との関係 ・仕入先・取引先関係の損失:移転により変更を迫られる取引関係
長年同一場所で営業してきた店舗、固定客が多い事業、立地そのものが営業の生命線である事業(駅前、商店街、診療所等)では、営業補償だけで数千万円規模になることが珍しくありません。営業損失の立証には、過去数年分の決算書、確定申告書、売上推移、顧客分析資料、同業他社の移転事例などが用いられます。
(3)移転実費
移転そのものに要する費用です。
・引越し費用 ・設備・什器・備品の移設費用(特殊設備がある場合は相当高額) ・内装工事費(移転先の原状復帰、新規内装) ・移転先物件の取得費用(敷金、礼金、仲介手数料、保証金) ・移転に関する案内・広告費用 ・一時的な業務委託費、仮店舗費用
店舗、診療所、飲食店、工場など、特殊設備や内装への投資額が大きい業態では、移転実費だけで数百万円から数千万円に及びます。
(4)移転先の賃料差額
移転先の物件の賃料が現在の賃料より高額になる場合、その差額の数年分が立退料に加算される場合があります。一般に、移転により現状の場所的利便性を失う以上、やむを得ず高い賃料を支払わざるを得ないという考慮が働きます。
(5)正当事由の充足度による調整
以上の要素の合計額を基準に、正当事由の充足度によって増減が加えられます。
貸主側に切迫した自己使用の必要性がある、建物の老朽化が著しく安全上の問題がある、借主側の使用継続の必要性が小さい——といった場合、立退料は「相当減額」される方向に作用します。逆に、貸主側の自己使用の必要性が弱い、建物がなお使用に耐える、借主側が長期間営業してきた——といった場合、立退料は増額される方向に作用します。
3 「賃料〇か月分」論と実際の裁判例との乖離
裁判例を見ると、「賃料〇か月分」という相場論がほとんど意味を持たない事案が多数存在します。
(1)都心部の店舗の事例
都内中心部の長期営業店舗について、借家権価格、営業補償、移転実費を合算して1億円を超える立退料が認められた事案は複数あります。これは、同じ物件の賃料の100か月分を超える水準です。
(2)地方都市の事業用物件の事例
地方都市でも、長期間営業してきた事業用物件について、営業補償と移転実費を中心に数千万円の立退料が認められた事案があります。月額賃料10万円の物件で、立退料が3000万円を超える——という事案は、賃料〇か月分の相場論からは導けない水準です。
(3)診療所・特殊業態の事例
診療所、専門店、工場、倉庫など、特殊設備を伴う業態では、移転実費だけで数千万円となる事案があります。加えて、同等の代替物件を確保することが困難な業態では、借家権価格や営業補償が上乗せされ、総額は大きく膨らみます。
こうした事例は、「賃料〇か月分」という一律の計算では絶対に到達できない水準の立退料です。ネット記事の相場論を前提に交渉に入ると、本来得られるはずの数千万円を自ら放棄することになります。
4 借主が取るべき初動対応
貸主から更新拒絶・退去要請を受けたとき、借主側で最優先すべきは証拠と立場を守る初動対応です。
(1)まず、退去の意思表示を急がない
貸主側から、「次回の更新はできない」「取り壊すので退去を」と口頭で告げられたとき、その場で「分かりました」「考えます」と応じないことです。貸主側の発言を否定する必要はありませんが、「退去するかどうか、立退料も含めて検討する」という立場を明確にしておきます。
契約更新に応じない旨を貸主が主張するには、期間満了の1年前から6か月前までに更新拒絶の通知をする必要があります(借地借家法26条)。この通知が書面で行われたか、口頭のみか、通知時期が要件を満たしているかは、早期に確認すべき事項です。通知要件を満たしていなければ、法定更新により契約は同一条件で継続します。
(2)契約書、賃料支払履歴、営業関係書類を保全する
立退交渉に入る前に、次の資料を手元に保全します。
・賃貸借契約書(初回契約、更新契約、変更合意書のすべて) ・賃料、共益費、保証金、敷金の支払履歴 ・建物の現況写真、テナント側の内装・設備への投資の証拠 ・開業時からの営業実績(売上推移、顧客基盤、決算書、確定申告書) ・取引先・仕入先との関係を示す資料 ・店舗・事業所の案内、広告、ウェブサイトの内容(立地の重要性の立証)
営業補償や借家権価格を主張するには、これらの資料が不可欠です。交渉開始後に資料を探し始めるよりも、初動の段階で整理しておく方が有利に進みます。
(3)貸主側の主張する「正当事由」の根拠を確認する
貸主が更新拒絶・解約申入れの理由として挙げる事項——自己使用の必要性、建物老朽化、建替計画、再開発の予定——について、具体的根拠を書面で求めます。
「老朽化」と言うなら、耐震診断結果や建築士の所見があるか。「自己使用の必要性」と言うなら、具体的な使用計画、貸主本人の住居状況、他の不動産の所有状況はどうか。正当事由の根拠が薄ければ薄いほど、立退料は高くなる方向に作用します。貸主側が具体的根拠を示せない場合、そもそも更新拒絶・解約申入れ自体が認められない可能性があります。
(4)弁護士への相談を早期に行う
貸主側は、交渉のプロ(不動産業者、立退交渉会社、弁護士)を立てて交渉に臨んでくることが通例です。借主側が一人で交渉に当たれば、情報量・交渉力の格差から、本来の相場より大幅に低い金額での合意に導かれるリスクがあります。
弁護士が介入することで、次のような変化が生じます。
・貸主側の提示額が法的・経済的に妥当か、独立した視点で検証される ・借家権価格、営業補償、移転実費の積上げを具体的に主張できる ・正当事由の充足度を争点化できる ・調停、訴訟への移行を選択肢として示せる ・貸主側の交渉担当者が、安易な圧力交渉を続けられなくなる
5 立退交渉の進め方
立退料の交渉は、おおむね次のような流れで進みます。
(1)貸主側の提示額の検証
貸主側から最初に提示される金額は、貸主側にとって最も有利な計算で算出された金額です。「賃料〇か月分」「○百万円」といった形で提示されることが多いですが、その金額の根拠を確認します。
・どの項目(借家権価格、営業補償、移転実費)を前提に算出されているか ・借家権割合、借家権価格の算定方法は何か ・営業補償は算入されているか ・移転実費の試算は現実的か ・正当事由の充足度をどう評価しているか
根拠が示されない、または薄弱な項目については、借主側から個別に根拠を示して増額を主張します。
(2)借主側の希望額の算定
借主側でも、立退料の希望額を具体的に積み上げます。不動産鑑定士による借家権価格の鑑定、公認会計士・税理士による営業補償の試算、見積書による移転実費の算定——といった、客観的資料に基づく積上げが交渉力を高めます。
希望額は、交渉の妥結点を貸主側提示額と希望額の中間に置くことを意識して設定します。
(3)交渉によって折り合いがつかない場合の選択肢
交渉が平行線をたどる場合、次の選択肢があります。
・調停:裁判所の調停委員の関与を得て合意形成を目指す。比較的短期間(数か月)で結論が出ることが多い。 ・訴訟:貸主が建物明渡請求訴訟を提起した場合、借主は応訴して立退料算定を争う。裁判所は正当事由の判断と立退料の算定を同時に行う。訴訟は1年から2年程度。 ・居座り続けて貸主側の訴訟提起を待つ:借主側から動かず、貸主側の更新拒絶・解約申入れに法的根拠がないことを主張して現状維持を図る。
どの選択肢が有利かは、事案の性質、借主の経済状況、営業継続の必要性、代替物件の状況などによって異なります。
6 貸主側が押してくる「圧力」への対応
立退交渉では、貸主側が借主に圧力をかけて早期退去を促そうとする場面が出てくることがあります。典型的な圧力のパターンと、その法的評価を整理します。
(1)「裁判になったら負ける」という脅し
「更新拒絶は認められる」「裁判になったら出ざるを得なくなる」という発言。実際には、正当事由の要件は厳格であり、貸主側の自己使用の必要性、建物老朽化、代替案などが具体的に立証されない限り、更新拒絶は認められません。借主の使用継続を否定するのは、裁判実務上は容易ではないというのが通例です。
(2)建物の修繕・維持管理の放置
「老朽化」を理由に明渡しを求めるため、建物の修繕・維持管理を意図的に怠るという対応をとる貸主もいます。しかし、修繕義務は貸主側にあり(民法606条)、必要な修繕を怠ったこと自体は、建物の状況を理由に明渡しを求める根拠を強めるものではありません。
(3)賃料値上げの一方的通告
「賃料を大幅に値上げする」と通告し、応じなければ契約終了を主張する——というパターン。しかし、賃料の増額は借地借家法32条により、相当な理由と協議を要します。借主側が増額に応じなくても、直ちに契約が終了するわけではありません。
(4)新所有者からの直接圧力
物件が売却され、新所有者から「すぐ出て行ってほしい」と告げられるパターン。しかし、賃貸借契約は新所有者にも承継されます(借地借家法31条)。借主の権利は、所有者が変わっても原則として影響を受けません。
貸主側の圧力を受けた時点で、書面や録音で記録を残し、弁護士に相談することが重要です。
7 実際に争った場合に動く金額の規模
具体的な金額規模で見ます。
小規模店舗(月額賃料15万円、営業10年)の事例 貸主側の初期提示:賃料6か月分(90万円) 借主側の主張:借家権価格+営業補償+移転実費で1500万円 妥結水準:700万円〜1000万円
中規模事業用物件(月額賃料50万円、営業20年)の事例 貸主側の初期提示:賃料1年分(600万円) 借主側の主張:借家権価格+営業補償+移転実費で5000万円 妥結水準:2500万円〜3500万円
都心部商業ビルテナント(月額賃料100万円、営業30年)の事例 貸主側の初期提示:賃料2年分(2400万円) 借主側の主張:借家権価格+営業補償+移転実費で1億5000万円 妥結水準:7000万円〜1億円
これらは、業態、立地、物件の性質、正当事由の充足度によって大きく変動します。しかし、いずれの事例でも、「賃料〇か月分」論で想定される金額の3倍から10倍以上の金額で妥結することが珍しくありません。
ネット記事の相場論に従って安易に応じてしまえば、本来得られる金額の大半を放棄することになります。
8 立退料の税務上の扱い
受け取った立退料の税務上の扱いは、構成項目によって異なります。
・借家権価格:譲渡所得として課税 ・営業補償(休業補償・逸失利益相当):事業所得として課税 ・移転実費の補填:非課税(実費補填の範囲内)
立退料の総額だけでなく、その内訳をどう整理するかによって、手取額に差が出ます。交渉段階から、税務の観点も踏まえて内訳構成を検討する必要があります。
9 早期相談の重要性
立退料交渉で、借主側が不利になる最大の原因は、初動段階で貸主側の提示額を前提にしてしまうことです。
・貸主側からの第一通告を受けた時点で相談 → 正当事由、立退料、交渉方針の全体設計が可能 ・交渉が始まってから相談 → 既に譲歩した内容を取り戻す必要が生じる ・退去の意思表示をしてしまった後で相談 → 交渉の出発点が借主側不利のまま固定される ・退去後・明渡し後で相談 → 追加請求の余地は限定される
貸主から「出て行ってほしい」と告げられた時点、更新拒絶の通知が届いた時点、建替・再開発計画を知らされた時点で、早期に弁護士に相談することが、結果を大きく左右します。
10 当事務所の取組み
当事務所では、建物明渡しを求められた借主(特に事業用物件のテナント)について、借地借家法28条の正当事由の充足度の検討、借家権価格の算定、営業補償の試算、移転実費の積上げ、貸主側の更新拒絶・解約申入れの法的要件の検証、交渉戦略の設計、調停・訴訟への移行の判断、税務を踏まえた内訳構成の検討を一貫して担当します。
「賃料〇か月分」といった相場論ではなく、事案ごとの具体的な積上げに基づく立退料の算定を行い、それを裏付ける資料を整備したうえで交渉に臨みます。
貸主から更新拒絶・退去要請を受けた方、立退料の提示を受けた方、建替・再開発計画を告げられた方は、次の資料をご持参のうえご相談ください。
・賃貸借契約書(初回契約、更新契約、変更合意書のすべて) ・貸主からの通知書、提示書面 ・賃料支払履歴、入出金記録 ・過去数年分の決算書、確定申告書 ・テナント側の内装・設備への投資額を示す資料 ・店舗・事業所の営業実績を示す資料 ・建物の現況写真
立退料として主張し得る金額の積上げと、どの順序でどの手続を取るべきかを、具体的にお示しします。
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