身に覚えのない借入や融資契約を金融機関から主張された方へ|氏名冒用と文書の真正を争う実務
ある日、金融機関から突然「あなたは過去にこの借入をした」「この連帯保証書にあなたの署名押印がある」と告げられる——。本人には契約した記憶がなく、貸付金の入金も受けていない。にもかかわらず、契約書には自分の氏名が書かれ、実印らしい印影が押されている。
このような事態は、現実に起こります。家族の誰かが本人に無断で契約書を作成した、勤務先の関係者が書類を持ち出して悪用した、第三者が本人の印鑑登録証や実印を冒用した——経緯はさまざまですが、共通しているのは、契約書という形式的には整った文書が存在してしまっているという点です。
この状況で、「知らない」「私ではない」と口頭で主張するだけでは、金融機関も裁判所も動きません。文書が存在する以上、それが真正に成立したものではないことを、立証活動によって明らかにしていく必要があります。
このページは、身に覚えのない借入・融資契約・連帯保証契約を主張された場合に、どのように争い、どのように立証するかを、実務の視点から説明します。
1 なぜ「身に覚えのない契約」の主張が難しいのか
契約書に自分の氏名と印影があり、金融機関が「これはあなたの契約である」と主張してきた場合、法律上、次のような推定が働く可能性があります。
二段の推定 文書に押されている印影が本人の印鑑によるものであることが証明されると、印影の本人の意思に基づく押印が推定され、さらにその結果、文書全体が真正に成立したものと推定されます(最高裁昭和39年5月12日判決など)。この推定は「二段の推定」と呼ばれています。
したがって、契約書の印影が本人の実印によるものであった場合、本人がその契約書を作成したものと推定され、「自分は契約していない」という主張をするには、推定を覆す反証を立てる必要が生じます。
推定を覆せなければ、契約書は真正に成立したものとされ、契約内容に従った支払義務を負うことになります。場合によっては、数百万〜数千万円、事業関係の連帯保証であれば億を超える債務の支払を命じられる可能性があります。
2 争う方向性は複数ある
身に覚えのない契約を争うとき、立てうる主張は複数あります。事案によって、どの主張を軸に据え、どれを予備的に組み合わせるかを決めます。
(1)文書の不真正(本人の意思に基づかない作成)
契約書そのものが、本人の意思に基づかず作成されたという主張です。具体的には次のような組み立てになります。
印影は本人の実印によるものだが、本人の意思に基づいて押されたものではない 家族や同居者が、本人の知らないうちに実印を持ち出して押した。勤務先の経理担当者が、本人の印鑑を管理していた立場を悪用して押した。こうした主張です。この場合、二段の推定の第一段階(意思に基づく押印の推定)を覆す必要があります。
印影自体が本人の印鑑によるものではない 契約書の印影が、本人の実印とは別の、偽造印または類似印によるものであるという主張です。この場合、印影照合による立証が中心になります。
署名が本人の筆跡ではない 契約書の署名が、本人の筆跡ではないという主張です。筆跡鑑定が立証手段になります。
(2)契約書が存在するが、契約の内容と異なる弁済・処理がされていた
契約書の成立は認めるが、そこに記載された金額・条件と、実際の取引履歴が一致しない、既に弁済済みであるという主張です。これは「身に覚えのない契約」そのものではなく、金額論の争いに移行するケースです。
(3)消滅時効の援用
契約書の成立も借入の事実も争わず、時効による消滅を主張する方法です。商事債権は5年(改正前商法522条。ただし民法改正後は一律5年または10年)、民事債権は従前10年が原則でしたが、民法改正後は5年または10年で消滅します。最後の弁済から相当期間経過している場合は、時効援用で債務を消滅させられる可能性があります。
このうち、本稿は主に(1)の「文書の不真正」を争う場合の実務に焦点を当てます。
3 印影を争う — 印影照合の実務
契約書の印影が本人の実印によるものでないと主張する場合、実印の印影と契約書の印影を比較して、同一性の有無を立証します。
印影照合では、次の点を比較検討します。
・印鑑の外周(縁)の形状、太さ、欠けの有無 ・文字の字体、太さ、位置関係 ・文字と文字の間隔、傾き ・印鑑の経年による摩耗・欠損の状態 ・印影周辺の朱肉の付着状況
印影照合は、専門家である鑑定人(印鑑鑑定を業として行う者、警察科学捜査研究所の経験者など)の鑑定書によることが最も有力です。裁判では、当事者からの鑑定依頼による私的鑑定と、裁判所が職権で選任する鑑定人による鑑定があります。
実印の印鑑証明書に記載された印影と契約書の印影が異なることが視覚的に判別できる事案では、印鑑証明書と契約書の印影を並べて示すだけで、相当程度の立証ができます。一方、視覚的判別が困難な場合は、専門家の鑑定が必要です。
4 筆跡を争う — 筆跡鑑定の実務
契約書の署名が本人の筆跡ではないと主張する場合、筆跡鑑定を行います。
筆跡鑑定では、次の要素を対照します。
・書き癖(特定の字の特定の部位の形状、運筆の速度、止め・はね・はらい) ・字画の構成(画数の順序、省略の有無) ・文字の大きさ、傾き、字間 ・筆圧、筆速、筆順 ・連綿・続け字の有無
筆跡鑑定を行うには、対照資料として、本人が書いたことが争いなく明らかな文書を複数収集する必要があります。実務上用いられる対照資料の例は次のとおりです。
・本人が行政機関に提出した書類(運転免許証の申請書、パスポートの申請書、税務申告書、年金関係書類) ・本人が勤務先に提出した書類(履歴書、源泉徴収票への署名、業務上の報告書) ・本人が過去に作成した私的文書(日記、手紙、メモ) ・本人が別の金融機関と交わした契約書(通帳への署名、ローン契約書など)
対照資料は、契約書と同時期のものが最も望ましく、また、通常の筆記状況で書かれたもの(緊張して書いたものや、急いで書いたものでないもの)が望まれます。
筆跡鑑定も、印影照合と同様、専門の筆跡鑑定人による鑑定書が有力な立証手段です。
5 「周辺事情」での立証も並行して行う
印影照合や筆跡鑑定だけでは、裁判所を完全に説得できない場合もあります。そこで、印影・筆跡以外の周辺事情からの立証を並行して組み立てます。
(1)契約当時の本人の所在・行動
契約書に記載された日付に、本人が契約場所に物理的にいたか。本人が契約場所から離れた場所にいたことを示す資料(出張記録、海外渡航記録、業務日報、交通ICカードの履歴、クレジットカードの利用明細、GPS記録、写真のExif情報)があれば、契約の実在を否定する強力な間接事実になります。
(2)本人の実印・印鑑証明書の管理状況
実印や印鑑登録証を本人がどこに保管していたか。同居する家族、勤務先の経理担当者、その他の第三者がアクセスできる状態にあったか。印鑑登録証明書を誰かが取得していたか(市区町村の交付記録から確認できる場合がある)。
(3)貸付金・融資金の入金先
貸付金が振り込まれたとされる口座が、本人名義の口座か、第三者の口座か、本人の口座でも本人が管理していない口座か。本人が実際に貸付金を受領した形跡(口座残高の増加、現金の受領、資金の使途)があるか。貸付金を受け取った形跡がないことは、契約の実在を否定する重要な間接事実です。
(4)契約書作成時の同行者・立会人
金融機関の担当者が契約書を作成した際、本人と面談したか、別人と面談したか。金融機関の記録(面談記録、応対時間、担当者メモ)に矛盾する記載がないか。
(5)動機・利害関係
仮に第三者が本人の名義を冒用したとすれば、その第三者は誰か、どのような動機があったか。家族内の経済状態、事業上の関係者の資金繰り、過去にトラブルがあったか。動機面の整合性は、冒用の主張に信憑性を持たせます。
(6)事後の行動
本人が契約の存在を知った時期、知った経緯、知った直後の対応(警察への相談、金融機関への照会、家族への確認)。契約の存在を知った時点で異を唱えている記録は、本人の認識を裏付けます。
(7)金融機関側の審査状況
金融機関が融資・保証を行う際、通常必要とされる書類確認、本人確認、担保評価などが適正に行われていたか。本人確認が杜撰であったこと、担当者が本人と直接面談していないことなどが記録上判明すれば、金融機関の過失を示す間接事実となり、契約の無効または金融機関の責任の主張につなげられる場合があります。
6 訴訟の流れ
身に覚えのない契約を争う訴訟は、金融機関が貸付金・保証債務の履行を求めて訴えを提起する(貸金返還請求訴訟)場合と、本人側から債務不存在確認訴訟を提起する場合があります。
(1)貸金返還請求訴訟の場合
金融機関が原告、本人が被告となります。金融機関は契約書を証拠として提出し、本人の押印・署名が真正であることを主張します。被告(本人)は、答弁書・準備書面で押印・署名の不真正を主張し、証拠の取調べを進めます。
訴訟での立証は、次の順序で進むことが多いです。
① 金融機関が契約書原本を提出 ② 本人が「作成の事実を否認」または「署名・押印の真正を否認」 ③ 金融機関が印鑑証明書、面談記録、貸付金入金の事実などで二段の推定を援用 ④ 本人が印影の相違、筆跡の相違、当時の所在、貸付金受領の不存在などを主張・立証 ⑤ 必要に応じて筆跡鑑定・印影鑑定の申出 ⑥ 関係者の証人尋問 ⑦ 判決
訴訟は、おおむね1年から2年程度の期間がかかります。鑑定を実施する場合は、さらに期間が延びます。
(2)債務不存在確認訴訟の場合
本人が原告となり、金融機関に対して「本件契約による債務が存在しないこと」の確認を求める訴訟です。契約の存在を先に争って確定させたい場合や、金融機関からの請求がエスカレートする前に争いを司法の場に持ち込みたい場合に用います。
7 早期に弁護士に相談する意義
身に覚えのない契約を主張されたとき、何もしないで時間が経過することは、本人にとって不利に働きます。
・反論すべき時期に反論していないこと自体が、「契約を認めていた」という間接事実として解釈される ・金融機関が強制執行を開始すれば、財産の差押え・給与の差押え等が行われ、生活・事業に直接的支障が生じる ・時間経過により、本人の当時の行動を裏付ける資料(通帳、業務記録、デジタル記録)が散逸する ・関係者の記憶が薄れ、証言の価値が減少する
金融機関から督促や請求を受けた時点で、すぐに弁護士に相談して対応方針を決めることが、立証の成否を大きく左右します。
8 争った場合に動く金額の規模
身に覚えのない契約に関する争いでは、契約そのものの存否が争点ですから、勝訴すれば支払義務がゼロになり、敗訴すれば全額の支払義務を負うという、結果が極端に分かれる類型です。
事業関係の連帯保証であれば、数千万円から数億円の債務の有無がそのまま決まります。個人の借入でも、数百万円から数千万円の規模になります。
さらに、これに付随して、既払金の返還が問題になる場合があります。本人が名義を冒用されていたにもかかわらず、請求を受けて一部支払ってしまっていた場合、その既払金は不当利得として返還を求められます。事案によっては、利息・遅延損害金を含めて数百万円の返還が認められることもあります。
何もしなければ全額負う、争えば全額回避できる可能性があるという構造である以上、争うか争わないかの判断は、事実関係と立証可能性を踏まえて、早期に決める必要があります。
9 当事務所の取組み
当事務所では、身に覚えのない借入・融資・連帯保証の主張を受けた方について、契約書の原本確認、印影照合、筆跡鑑定の検討、当時の本人の所在・行動の裏付け、貸付金の入金経路の追跡、金融機関の審査記録の開示要求、関係者の関与状況の解明を一貫して行います。
印影や筆跡の争いは、視覚的・専門的な立証と、周辺事情の積み上げを両輪で組み立てる必要があります。どちらか一方だけで勝負しようとすると、裁判所を説得しきれないことがあります。当事務所では、両輪を並行して準備し、主張書面で相互に補強する構成を採ります。
金融機関から督促・請求を受けている方、裁判所から訴状・支払督促が届いた方、身に覚えのない連帯保証について照会を受けた方は、次の資料をご持参のうえ、ご相談ください。
・金融機関からの督促状・請求書・訴状・支払督促 ・問題となっている契約書の写し(手元にある場合) ・本人の印鑑登録証明書、実印の現物(または写真) ・契約日当時の本人の所在・行動を示す資料(手帳、業務記録、交通記録、カード明細など) ・本人が過去に作成した書類(筆跡鑑定の対照資料になるもの) ・家族・勤務先・関係者の情報(冒用者として想定される範囲)
事案の構造を早急に整理し、どの主張を軸に据え、どの立証から着手すべきかを、具体的な手順でお示しします。
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